Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

崇徳上皇と日本「三大怨霊」

平清盛、今日はいつもより遅い9時の放送予定でしたが、オリンピック柔道の関係でさらに一時間も遅れてしまいました。

今日は崇徳上皇の怨霊の話から次男基盛の死とそれを鎮める様が描かれていますが、崇徳上皇役の井浦新の演技、なかなかすごかったですね。(笑)井浦氏の話ですと「生霊化してからは無になって演じていたので細かなことは記憶に残ってません。」とのことです。何か一応「大河ドラマ」なんですが、ちょっと低級なホラーになっている感じでしたね。(笑)

この崇徳上皇、日本の三大怨霊の一人といわれていますが、崇徳上皇は、死ぬ前から自ら怨霊になってやろうと、「日本一の大魔縁となり『皇を取って民となし民を皇となさん』」と血文字で書いて決意して死んでいった上皇だったといいます。とはいえ、これは保元物語の記述でどこまで信憑性があるかわかりません。ちなみにかなり信頼できる歴史資料の1つ、『今鏡』では「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はないそうです。また配流先で崇徳院が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はないそうです。

いわゆる日本の「三大怨霊」として次の3人が挙げられますが
菅原道真 
道真の死後に相次いだ異変が起き、道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死し、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王薨去)、次いでその息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。さらには延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、道真左遷に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。

平将門 
承平天慶の乱で敗れた将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したといい、その落ちたところが東京千代田区大手町の平将門首塚という。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるそうで、今でも将門伝説は絶えない。

そしてこの崇徳上皇 

いずれも平安時代の人物であるということからも、まだ科学らしい科学などなく、少し不思議なことが起きるとなんでも「怨霊」のせいにしてしまう当時の風潮を感じることができます。そして何よりも上記の三人を見ますとかなり朝廷側の人間の心の中に「やましい心」、後ろめたさ、申し訳なさ、罪悪感みたいな、 そういう思いがだんだん膨らんでくる中、様々な災悪が、例えば身内に病気が起きるとか、或いは、都その他天下に天変地異が起きるとかいったことを「怨霊」のせいにしてしまったということでしょう。
そのため後白河上皇は崇徳のことを、 自分たちの身の回りに起こる不吉なこと、天変地異を恐れ必死になってお祭を続けたようです。それは結局後白河方の罪悪感を薄める意味もあったような気がします。

いずれにせよ「怨霊伝説」の背景には平安時代の権力争い、という面があったのは間違いありません。単にアニミズム的な話ではないようですね。