Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー「将軍の首」−尊王攘夷について

「八重の桜」ーついに松平容保を始め会津勢が京都入りしました。
孝明天皇松平容保が拝謁するシーンが描かれていましたが、この孝明天皇はこれから幕末に向けての徳川幕府にとってもキーパーソンの一人になります。染五郎孝明天皇ですか。最近天皇役には歌舞伎役者を使うことが多いですがやはり天皇の「気品」を表現するには歌舞伎役者の方がいいんでしょうか?

さて、当初は懐柔策で対応しようとした容保が尊王攘夷運動の本質を知り一転強硬策に転じるさまが描かれていましたがここで、幕末の歴史をある意味わかり辛くしている尊王攘夷運動について考えてみたいと思います。

といいますのはこの尊王攘夷運動は元々幕府側、御三家の水戸家の水戸学を起源として各藩に広がってという点と、開国派、佐幕派等が幕府や長州、薩摩にも存在する等ある意味わかり辛い図式になっていますので整理しながら尊王攘夷運動を見ないと非常にややこしいことになるからだと思います。幕末のドラマが不人気とよくいわれますが、この尊王攘夷運動のわかり辛さが影響を及ぼしているような気もしますので

・1.尊王攘夷運動黎明期弘道館設立からペリー来航まで

そもそもこの「攘夷」という概念は水戸藩の水戸学から発したもので水戸学自体は徳川光圀が編纂した大日本史からの流れを組みます。
実はペリー来航以前にも外国の船が水や食料を求めて日本に来航する事件は頻繁に起きており、ペリー来航以前には文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸し、幕府がその要求に応じたという事件が起きます。
その対応が水戸藩士には「弱腰」と写り、会沢正志斎尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著する。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えました。その後九代藩主水戸斉昭(ドラマでは伊吹吾郎さんが演じている役です)が弘道館を設立、その弘道館にて藤田東湖古事記日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにし体系だてたのが水戸学を起源とした尊王攘夷運動の考え方の礎になります。

この考え方は幕末の志士に大きな影響を及ぼしました、この時点ではまだ各藩における尊王攘夷運動は基本的に変化はなく、度々来航する外国船に対しては一致して「攘夷」運動が広がっていきます しかしペリー来航日米和親条約締結から雲行きが変わってきます。

つまり  国全体 ⇒ 尊王攘夷

2.ペリー来航 開国ー禁門の変まで 「開国派」と「攘夷派」で国内が分裂

実はドラマの中で容保が尊王攘夷運動に対して懐柔策で対応しようとしていたのは、元々この尊王攘夷運動の起源が徳川御三家の水戸学を起源としていたことを容保が知っていたためです、ちなみに容保は血統的には水戸家の第六代藩主徳川治保の子孫ということもあり、まだ身近なイメージを持っていたのでしょう。

しかしこのペリー来航、日米和親条約締結から「開国」を推進する幕府と「攘夷」を主張する志士ー特に長州との間に対立の図式が生まれます。つまりこのころから尊王攘夷運動「倒幕運動」と結びついてきます。この時代はある意味「開国」でなければと「攘夷」のどちらかの右か左、白か黒のどちらかという図式で、かくして開国派攘夷派に命をねらわれる「天誅」の頻発という事態が起きました。今日の八重の桜の「将軍の首」はまさにこの状態のさなかです。

尚、この時のちに長州と同盟を結ぶ薩摩はまだ幕府側でした。薩摩藩は他の藩と事情が違いますのは琉球を傘下に置いていた関係で江戸時代の間、寧ろ幕府よりも外国の情報を手に入れていました。同時に前藩主の島津斉彬を始め弟の久光や薩摩藩も西洋文明の発達についてよく把握しており、安易で感情にまかせた攘夷運動に対してはともすれば批判的であった、という点は押さえておかねばなりません。

「開国」を主張する徳川幕府薩摩藩と、あくまで鎖国の状態を維持することを主張する長州藩の対立は深刻になり、長州藩孝明天皇を拉致し正当性が長州側になる事態を作ろうという行動に出ます。これが禁門の変です。(蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)ともいいます)激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、これが、第一次長州征伐につながります。

  開国論 ⇔ 尊王攘夷
              対立

3.薩英戦争と下関戦争から愛国的攘夷から薩長同盟と倒幕へ開国と富国強兵の「大攘夷論」に変質

さて、禁門の変で壊滅的な打撃を受けた長州藩ですが、少し時間を戻します。

実はその前に攘夷運動にとって大きな転機となる事件が起きます。1862年に幕府は孝明天皇より攘夷実行を迫られ対応に苦慮していました、その時に薩摩とイギリスとの戦争である薩英戦争が1862年に、そして長州とイギリスフランス連合艦隊による下関戦争が1863-64年にかけておきます。
いずれもコテンパンにやられるわけですが、この2つの戦争の本質は全く違います。

比較的西洋の事情に詳しく近代文明が多く入り込んでいた薩摩藩にも尊王攘夷運動の支持者がいました。そしてその薩摩藩士が世に有名な生麦事件ー・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷する事件ーを起こしてしまいます。この薩英戦争はイギリスに解決を迫られた結果起きた戦争であり、元々双方に明確な戦意はありませんでした、しかもイギリスは幕府からの賠償金をつんだ上で薩摩に戦争をしかけており、この行動は寧ろ国際的に非難をあびます。またこの薩摩の攻撃を幕府は朝廷に向かって攘夷実行を行ったと報告したため、多分に政治的な色彩が強いものでした。また他の藩と比べて比較的近代的な装備を有していた薩摩藩はこの戦争で思いの他善戦しました。

一方下関戦争は同じ攘夷実行でも、薩摩と違い近代的な武力をまだこの時点では有しておらず、イギリスにそれなりの損害を与えた薩英戦争とは異なり、まさに完膚なきまでに敗北します。この戦争で完全に無力化された長州藩はこの戦争をきっかけに武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化してゆくことに積極的になっていきます。

つまりこの段階で外国を排斥する攘夷運動基本的には開国論受容に転換します。。但しその開国論への転換は諸外国と対等に対峙する力をつけるべきだとする「大攘夷」論に本質が転換します。

ここがわかりにくいところかもしれません。幕府も長州もじゃあ開国論になったんじゃないか? じゃ何で対立するんだ?と思うかもしれません。しかしすでにペリー来航以降尊王攘夷運動は本質的に「倒幕運動」に変質したことを思い出してください。

つまりここから尊王攘夷運動の図式が大きく変わります。

つまり幕府の体制を開国によって維持しようーそのために天皇と幕府が親密になる公武合体論」を打ち出すーという図式と倒幕して開国して新たな国を作ろうという対立の図式に変化していった、という点です。

つまり 開国論 ⇔ 尊王攘夷
              
 公武合体(幕府維持) ⇔ 大攘夷(倒幕ー新政府樹立)

という図式に変化していきました。

もう1点重要な点はこの。薩英戦争下関戦争でかえってイギリスや列強国の長州や薩摩に対する評価が高くなった点です。イギリスの公使アーネストサトウはとかく官僚的で融通のきかない江戸幕府の役人の対応にいら立ちと嫌気を覚えた反面、将来へのビジョンを明確に示した高杉晋作西郷隆盛の人間性の方を信頼するようになったと書いており、この2つの戦争は結果として倒幕に向けた大きなきっかけになりました。

元々徳川御三家の水戸学を起源にした攘夷論が結果的に幕府を倒す原動力になったというのは何とも皮肉な話ですが、幕末を理解する上で必要だと思い、少し整理しました。

というわけで禁門の変は再来週でしょうかね。薩英戦争や下関事件について「八重の桜」で触れられるのか、何ともわかりませんが今後の展開に期待したいです。