Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー禁門の変(蛤御門の変)

大河ドラマ 八重の桜 いよいよ今日は禁門の変蛤御門の変ともいいます)です。

きっかけは先日の「池田屋事件」ですが、これをきっかけに歴史が大きく動いていきます。

元々長州は勤皇の風土が強い藩ではあったのですが、八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵したのがこの事件です。しかしドラマにはあまり描かれていませんでしたが長州藩の中にも強硬派と慎重派があり鷹司邸で自刃した久坂玄随は逃亡した桂小五郎(のちの木戸孝允)と共に元々慎重派でしたが、島田久作演じる真木和泉(いやーぴったりのキャステイングでした(^^))と来島又兵衛に押される形で今回の挙兵になだれこんでしまいました。


今回の首謀者的存在の真木和泉(本名は真木保臣ーまきやすおみ)は長州藩士ではなく久留米藩士で元々久留米の水天宮の神職の家系で、、尊皇攘夷派の指導者的な活動家でした。その思想は楠正成を崇拝していることからもわかるように、ひとことでいえば今日の右翼の武闘派的な存在で国粋主義者といってもいい思想の持ち主でした。今ではそういういいかたができますが、江戸時代の日本は実質的に「藩」という単位による連邦国家です。その観点からすれば真木和泉の考え方は当時としては斬新といえなくもなかったのですが..

いずれにせよ真木和泉と戦国時代のメンタリテイをそのまま持っていた来島又兵衛両名が主戦論を主張し結局はそれに押し切られてしまった、という状況ですが客観的に見てこの挙兵は「無謀」と言われても仕方がない内容でした。
記録によりますと久坂、真木軍は1600 別働隊も1600に対し、幕府側は会津、桑名、薩摩、大垣それに新撰組を加えると1万はいたといわれます。

ドラマにも描かれていましたように、会津藩山本覚馬の再三による要請にも関わらず武力の近代化が遅れており、そのために長州軍の猛攻に苦慮しますが、戦況を変えたのは最新の武器を備えた薩摩藩でした。先日も申し上げた通り、薩英戦争でもイギリス軍にかなりの損害を与えられるほど薩摩藩の武力は近代化しており、3000丁の最新鋭のケベール銃を装備した薩摩藩に対しいまだ火縄銃を始め戦国時代を再現したと思われる長州軍の武力では全く勝負にならず長州藩は敗走します。

このころはまだ薩摩藩は幕府の公武合体佐幕派よりでした。これがのちに長州と同盟を結ぶ、というところが「わかりにくい」と感じる人が多いようですが、そこが乱世の幕末、戦国時代と同じで今日の友は明日の敵、ということは乱世ではよくあることなので、そこはあまり深く考えない方がわかりやすいのではないでしょうか?

さて、この禁門の変長州藩は大きな打撃をこうむりました。とりわけ若手で将来を嘱望されていた久坂玄随を失ったのは大きいと思います、久坂玄随は高杉晋作池田屋事件で自刃した吉田稔麿(よしだとしまろ)と共に吉田松陰松下村塾三秀と呼ばれた人物であり、本来はこの禁門の変で死ななくてもよかった人物です。

非常に残念なのは、松下村塾三秀で生きて明治維新を迎えた人物は一人もいませんでした。もし三秀の中の一人でも明治政府の中で活躍していれば明治の歴史はまた変わっていたと思います。

さて、ネタバレですがドラマでは覚馬が戦いの中で目を負傷する様子が描かれていましたが、これが覚馬の失明につながっていきます。

京都が戦火につつまれるのは、大阪夏の陣以来のことであり、戦争の結果京都は応仁の乱以来という焼野原になります。結果的にはこれが幕末のターニングポイントとなり会津藩の悲劇が始まってしまいます。覚馬は戊辰戦争のあと京都の再建に大きく寄与しますが、禁門の変で京都を戦火につつんだ時の経験が結果的に明治に入ってからの山本覚馬の行動に影響を与えたのかもしれません。そして「あんつぁま大好き」な妹の八重もその運命に引き込まれていきます。

尚、最後に松形弘樹扮する京都の政商の大垣屋清八が出てきましたが、清八は明治に入ると「大澤清八」と名乗り現在の京都市電にあたる日本最初の電車網である「京都電気鉄道」を立ち上げます。覚馬が京都府で辣腕をふるう時にも大きな役割を果たす、はずです。大沢商会の創立者でもあります。