Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー開戦!! 鳥羽伏見の戦い

八重の桜ーいよいよ前半の佳境というべき戊辰戦争の開戦を告げる、鳥羽伏見の戦いが始まりました。

今回もほぼ史実通りで、失地回復を狙った慶喜の「外交を握った」と諸藩に示すパフォーマンス、アメリカとイギリスの外交官を大阪城に集めましたが、名前は出ていませんでしたがおそらく通訳をしていたイギリス人はアーネスト・サトウ(日本名の佐藤さんではありません、名前はSatowでこの人の先祖は北欧系だそうです)
慶喜に対して立ってあいさつを述べていたのは、その風貌からアメリカ公使「タウンゼント・ハリス」と思われます。

これに対して西郷は倒幕のための開戦の大義名分を作るために江戸市街で挑発的な破壊工作を行います。慶喜大政奉還をしたため戦争の大義名分がなくなっているためです。勝海舟を始め会津藩も挑発には乗らないように説得しますが、庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きてしまいます。これをきっかけに幕府軍の中でも主戦論が高まりとうとう慶喜は抑えきれなくなってしまいます。

しかし会津藩と違い、幕臣はもう260年も戦などしたことのない連中ばかり、作戦らしい作戦もたてず、しかも武器は旧式、中には戦国時代を再現したような時代錯誤の藩も少なくありませんでした、

しかも覚馬がカールレーマンに発注した銃は結局この戊申戦争に間に合うことはありませんでした。覚馬の苦労も会津を助けることはできなかったんですね。

そして鳥羽、と伏見、現在の京都府の上鳥羽(京都市南区)と伏見(京都市伏見区)−ここは狭い街道のためそもそも大軍が待機するには不向きな場所、しかも薩摩も長州も最新式の装備、狭い街道で突進してきた幕府軍はただ最新式の銃の的になるしかありませんでした。幕府軍は数では圧倒していたにも関わらず惨敗を喫してしまいます。会津藩で覚馬の一家を引き立ててきた風間杜夫扮する林権助がここで討ち死に。

会津の悲劇が始まってしまいます。
鳥羽伏見には八重の弟の三郎がいました。
山本家にも悲劇が始まろうとしています。

会津では開戦ムードが高まり、中野竹子と八重の戦いの心境を詠んだ歌。

この二人は会津戦争で大活躍をしてしまいますが...

前にも書きましたが母方の祖先が会津藩士とのことで、しかもこの「八重の桜」に出てくる人会津の人はみんな、本当にいい人。

ちょっとしばらく見るのはつらいかもしれません。

会津若松には出張で一度だけ行ったことがあります。鶴ヶ城も見てきました。
現在残っているのは戦後再建されたものですが...

悲劇の舞台です。
その件はまた書きます。