Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー鶴ヶ城開城ー会津戦死者埋葬についての「定説」に異を唱え

八重の桜、戊申戦争勃発から1ケ月半近くたちましてようやく会津戦争終結。大勢の会津兵戦死を目の当たりにしてとうとう容保が苦渋の決断を行い戦争が終わります。
八重が容保に語った言葉
「どう考えてもわがんねえ。天子様(天皇)にお仕えして幕府にもお仕えして、なぜ会津は逆賊にならなきゃならんのが..」
これは会津藩士全員の気持ちだったでしょうね。司馬遼太郎が語るまでもなく凶のくじであることを承知の上でひいた会津藩。こんな不条理なことは日本歴史でも他に例を見ないと思います。

さて来週から会津戦争終結から半年後に舞台がうつりますのでおそらくこの件について触れられることはないと思われますので、実は会津戦争終結後の「定説」について疑問というか異を唱えようと思います。いつも長文ですが今回は特に長文になりますので、お時間のある時に読んでいただければと思います。

前にも申し上げましたとおり母方の祖先が会津藩士ということもあり、その関係で基本的には私も会津側の肩を持ってしまうのですが、実は新政府軍が会津に対して行った「仕打ち」が現在日本史、幕末史の中で定説になっていますが、それがどうにも納得がいかないので、いろいろと調査をいたしました。

その「定説」とは、

会津戦争後、新政府軍が戦死した会津兵の亡骸の埋葬を禁止した。

という説です、

wikipediaに記述されている「史実」を引用しましょう。

明治政府軍は、会津戦争の戦死者・犠牲者の一切に対して埋葬を禁止したため、長期間に渡って放置された老少男女の死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況だったと言われている。
見かねた庄屋の吉田伊惣冶が放置された戦死者を埋葬したため、明治政府民政局によって投獄され数日が経ち「今回だけは許す、今後このようなことがあれば直ちに首を刎ねる、村人に知らしめよ。」と釈放された(飯盛山に彼を顕彰する碑が立てられている)。
半年程経ち、遺体取り片付けの誓願書が多く寄せられ、疫病の要因になる等の理由から、ようやく埋葬を許された。死体の処理には藩士や村人を許さず、被差別部落民を使い、墓ではなく、罪人塚という形で認められた。彼らは大きな穴を掘り、遺体をお風呂桶、古棚、莚にぎゅうぎゅうに詰め、ごみ同然に投げいれたという。戦後処理のため残された会津藩士二十人は皆、涙ながらに立ちすくんでいたと言う。[要出典]この中にはごみ同然に捨てられている遺体を丁重に葬るため、身分を捨て部落民になる者もいた

最初にこれを聞いた時は信じられないと同時に、事実ならなんてひどいことを、とも思いましたが、冷静になって考えてみるとどうしても合点がいかない、納得がいかない部分が出てきました。

なぜなら明治政府軍ー薩摩長州土佐肥後ーが中心ですがいずれの藩も近代的な軍事訓練を受けておりその意味では戦国時代のような軍とは全く異なるものであることをまず押さえておかなければなりません。
ここで重要なのは近代的な軍がある「命令」を下すには戦略的、軍事的に何らかの意味がなければならない、ということです。

もし新政府軍が遺体の埋葬を禁止したというのであればそれが何らかの軍事的、戦略的理由によってメリットが得られるという意味がないといけません。

しかし会津が降伏後、遺体の埋葬を禁止する軍事的、戦略的理由などどう考えても見当たりません。つまりこの命令が下されとしてもその命令にはロジカルな意味などどう考えてもないのです。寧ろそこら辺りに死臭がしてまともな人間なら耐えられないはずですし、疫病の元にもなります。

新政府軍に長州藩がいるために禁門の変」の恨みで会津藩にそのような仕打ちをした、という説もあります。しかしもしそうであるとしたら、会津藩の戦いぶりに「敵ながらあっぱれ」と称賛し木戸孝允会津藩への厳罰を避ける旨の手紙を書いた長州藩の参謀・前原一誠の行動はそれと矛盾することになります。実際このことによって松平容保の死罪は免れます。

しかし確かに会津藩の子孫の間でもこの「遺体埋葬禁止説」の話は伝わっています。これはどういうことなんだろうか? と調べていたら私と同じ疑問を持っていた方がいらっしゃいました。

■なぜ遺体は埋葬されなかったか?
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/maisou/maiso.htm
このページの著者の大山格(おおやまいたる)さんは新政府軍の参謀で西郷隆盛の従弟、日露戦争の英雄でもある大山巌(弥助)のご子孫で歴史研究家をされています。大山巌(ドラマで反町が演じていた役です)は会津戦争で戦いながら戦後、鶴ヶ城に籠城していた会津女性とのちに結婚することになります。そのためこの方は会津と薩摩両方の血をひかれています。

さて、この方はやはり「遺体埋葬禁止」の命令はなかったという立場であり、その根拠である「明治戊申戦役殉難之霊奉祀の由来」で歴史学者の今井昭彦氏が「何時も官命未だ許諾なければ手を下すべからずと頑として聴許せられず」の記述を会津藩士の遺体の埋葬禁止と解釈した点です。しかし実際には会津若松市史」ではこの命令は身元確認のための一時的なもの、という解釈にしており、実際会津戦争終結後の10月4日に遺体を埋葬する命令が出ている会津若松市史」では伝えています。この会津若松市史」を信頼するのであればすでに「定説」崩れてしまいます。

にも関わらず会津藩士の子孫の間でも「遺体埋葬禁止」の命令があったと伝承され、深い怨念がいまだに残っています。

実は実際に「遺体埋葬禁止」ではなく「遺体埋葬の遅延」は生じていました。しかしそれは次の大きな理由からです。

1.会津戦争当時の会津領内の治安の悪化、農民一揆や略奪の頻発による作業の遅延
2.冬になり降雪が多く遺体の埋葬作業が遅れたこと

この二点です。

「遺体埋葬の遅延」の象徴的な存在は飯盛山で自刃した白虎隊の遺体の埋葬です。白虎隊は会津の悲劇の象徴的な事件として伝えられたためにこの「遺体埋葬の遅延」がかなり曲解されてしまったという背景があります。

さらにもう1つは新政府軍はまだ箱館戦争大鳥圭介旧幕府軍の残敵も残っていたため、あとは明治政府に投降した越前藩その他の藩士によって運営されていたという事実です。この運営は困難をきわめ秩序はなかなか安定しなかったようです。多くの旧会津藩士が会津をあとにしたのはこの治安の悪さも影響したようです。

さて以上のことを踏まえて上記のwikipediaの解説に比べ実際の史実はどうだったか?

明治政府軍は、会津戦争の戦死者・犠牲者の一切に対して埋葬を禁止したため...
→ 実際には明治政府軍は埋葬は禁止していません、農民一揆や治安の悪化、積雪等で遅延してしまった

見かねた庄屋の吉田伊惣冶が放置された戦死者を埋葬したため、明治政府民政局によって投獄され数日が経ち..
実は「白虎隊勇士列伝」は全く逆で遺体を埋葬したことを民生局から賞せられるという記述があります。「定説」とは全く逆です。

死体の処理には藩士や村人を許さず、被差別部落民を使い、墓ではなく
これは史実として「長吏」と呼ばれる人たちが処理したという史実が残っています。現代でもこの部落民の差別意識は残っていてこれは人権上大きな問題です。

彼らは大きな穴を掘り、遺体をお風呂桶、古棚、莚にぎゅうぎゅうに詰め、ごみ同然に投げいれた...
ここから以降は全くの作り話です。

なぜなら各藩士の個別の墓はきちんと存在するからです。飯盛山の白虎隊の墓も1人1人きちんと存在しています。また「長吏」と呼ばれる被差別民を使っていたことで旧藩士の間でも差別意識もあったためこの辺りの記述は私も信用できないものと考えます。

先程も申し上げたように薩長を中心とする新政府軍が会津に駐留したのは9月までで翌月には箱館に行っています。実際明治政府に変わって統治したのは旧加賀藩、会津藩の藩士です。そして遺体埋葬の遅延があったのは事実ですが、それは上記の2つの理由によるもので薩長側から「命令」があったわけではありません。にもかかわらずなぜ薩長が遺体埋葬の禁止の命令を出した」という話がまことしやかに伝わっているのでしょうか?

この原因についてはさまざまな複雑な事情があると思われますが
1.歴史観の変遷
薩長藩閥がなくなった大正あたりから会津藩の名誉回復の運動が起き、その過程で一部の史実も曲げられた。

2.白虎隊伝説の国家主義の悪用と観光地化
白虎隊の悲劇は既に周知のとおりですが、その後なぜかイタリアの独裁者ムッソリーニがポンペイ石柱の記念碑を贈ることから始まり、白虎隊の悲劇は国家主義の美談として利用されてしまいます。
 また白虎隊が埋葬された墓も「観光地化」されその中の過程で史実が曲げられて伝えられた、というのが上記の大山氏の説です。
  私もその説は非常に納得できるものだと考えます。どう考えても意味のない「遺体埋葬禁止命令」など薩長が出すはずもないし、それを記述しているのは歴史学者の今井昭彦氏(上記リンク先参照)のみです。それ以外の歴史書には薩長がそういう命令を出したという記述はどこにも見当たりません。
  にも関わらずこれが「定説」になってしまった背景は東大史料編纂所の教授の保谷徹氏が今井昭彦氏の説を受け入れてしまったことが背景にあるようです。大山氏はたいした研究もせずほぼ今井氏の説を鵜呑みにしたとも取れる保谷教授を批判しています。

まあこの「定説」に関してはいろんな複雑な事情があるようです。いずれにせよそれが長年の怨念に結び付いてしまったというのは非常に不幸なことといわざるを得ません。

詳しくは長文ですが上記のリンクをお読みください

さて、本当に長かった会津戦争のドラマが終わりました。来週から明治に入りいよいよ舞台が京都に映るようです。今までは重かったですが、来週から「同じドラマか」と疑うほど雰囲気は変わっているはずです。

長文失礼しました。