Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー斗南藩と山川家の人々

「八重の桜」会津戦争が終わり八重と佐久さんたち女性ばかり4人は川崎尚之助に砲術を学んだ元米沢藩士の内藤新一郎の元に寄宿していました。この事実は私は知らなかったのですが、先日の記事にも書きましたように旧会津領内の治安の悪さも手伝って、会津領内にとどまるのは危険だったということもあったのでしょう。私の母方の祖先も「寺泊沖海戦」後、おそらく家族全員がこの頃には新潟の寺泊町(現在の長岡市寺泊町)に移っているものと思われます

ドラマでは「敗者の立場」になった旧会津藩の辛い日々が描かれ、まだ後半の「明るさ」が出ていませんが、「京都編」の序章となるような場面がいくつか出ていました。オダギリジョー扮する新島穣が明治新政府への思いを英語で語り、すっかり目が見えなくなり今や完全に「内縁の妻」となった覚馬と時栄との様子。そして山川家の人々、健次郎が学問のために長州藩の助力でアメリカに留学、そして末娘の「咲」さんも出ていました、実はこの「咲」さん、「八重の桜」でも重要なポイントの登場人物になるはずです。詳しくはあとで書きます

山川大蔵、のちの山川浩は先日の記事にも書きましたが、会津藩で唯一留学経験があり会津戦争でも戦功をあげ新政府の中でも一目おかれていた存在でした。旧会津藩の山川に対する期待は大きく、山川は旧会津藩の再興の斗南藩の参事(筆頭家老)となります。

この「斗南藩」、下北半島の不毛の地に移るのですが、実際には猪苗代の近辺とどちらかを選ぶようになっていたようです。しかし山川大蔵を中心に「海の交易」を念頭に置いていたため下北半島の方になったようです。しかしそこは寒冷な自然と痩せた土地で、農業の生産高はあがらず飢えと寒さで病死者が続出、蒸発するものもあったそうです。しかし山川ら会津人は挫けず、斗南ヶ丘建設に始まる原野の開墾政策、斗南日新館による教育・人材育成に務めました。

しかしすでにこの頃から諸藩の版籍奉還が始まっており、二年後に始まる「廃藩置県」によって僅か二年余りの短い歴史となります。廃藩置県で斗南県となったため、山川大蔵将来のため、財力のある弘前県との合併運動を進め、周辺五県が合併しそれが現在の青森県になりました。しかしこのことで旧会津藩士はさらに全国に散っていくことになります。

但しドラマにも登場した広沢富次郎(広沢安任)は日本発の様式牧場「開牧社」を開設し成功を収めています。

さて、ここから先は山川家の話になりますが、かなりネタバレがありますので、読みたくない方は読まないでください(笑)

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  ネ    タ     バ     レ

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先日の記事にも書きましたようにその後山川大蔵明治政府内の谷干城に招聘され陸軍に出仕。山川浩と改名して陸軍少将にまで上り詰めます。その後教育の分野に転身し、東京高等師範学校(現・筑波大学)及びその附属学校(現・筑波大学附属小学校及び筑波大学附属中学校・高等学校)の校長に就任します。

そして留学に行った山川健次郎は後物理学者として東京帝国大学(現東大)の総長になります。旧白虎隊に所属していましたが、晩年兄山川浩が幕末の重要な史料となる『京都守護職始末』を執筆中に死去したため、弟の健次郎がそれを完成しています。

そしてドラマでもチラッと描かれていました妹の「咲」 彼女はおそらく「八重の桜」のストーリー上重要な位置を占めてくるでしょうね。おそらく成人した「咲」改め「捨松」役が存在すると思いますが一体誰が演じるんでしょうか?

実はこの山川咲、のちの大山捨松

1.おそらく日本史上初めての欧米の帰国子女であること

2.そしてなんと会津にとっては仇敵となる薩摩藩、それも西郷の従弟の大山巌と結婚すること

1.は兄の健次郎に事実上ついていくということもありますし、上記の斗南藩の生活が苦しいため大蔵が咲を里子に出したという事情もありました。この時に「捨松」と改名、この名前は秋吉久美子演じる母親の艶さんが「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」ということから名づけられたようです。
官費留学生としてフランスとアメリカに留学、他には同年代の女子5名。その中に生涯の友になり、津田塾大学の創立者の津田梅子もいました。「捨松」は梅子とともに女子教育の現場に力を尽くすことになります。フランス語と英語を流暢に話し、美貌と才能に恵まれ後に鹿鳴館の花」の一人に称されます

そして2.の大山巌、八重に足をスペンサー銃で撃たれた人ですが、何とこの「捨松」に一目ぼれしてしまいます。紆余曲折の末ようやく結婚しますが、会津の人は今でも「薩摩憎し」という感情がありますから、この当時の雰囲気は推して知るべしだと思います。

上記の件で気づかれた方も多いと思いますが、

実は山川家の兄弟はみな教育の分野で大きな実績を上げます。

そして八重も新島穣とともにキリスト教の学校を作ります。

この2つ、私の想像ですがかなり今後のストーリーでかなり連動すると想像しますがいかがでしょうか?