Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜(兄の見取り図)明治のスーパーウーマン大山捨松登場!!

八重の桜 今回より京都編が本格的に始まります。お断りしておきますが今日も長文です。

悲壮な会津戦争の後、新政府に協力する兄を理解できない八重、無理もない話ですが覚馬の「これは俺の戦だ」といって覚馬が牢獄で書いた管見を八重に見せます。

管見には「女子も男子と同じように学ぶべし」と当時としては画期的な記述がありました。

「ヌシならこの意味がわかるはずだ」
「これからは学問がヌシの武器だ」といって諭し八重を感動させます。

何度もいうようにこの山本覚馬管見これだけで山本覚馬は歴史に名を刻まれてもいいほどその後の日本にとっての重要な政策提言になります。ここまで具体的かつ詳細に書かれた政策提言は他に例をみません。

一方で条約改正その他を視察するためのいわゆる岩倉使節団目的を果たせないまま、木戸と大久保の対立(元々木戸と大久保、西郷は仲は良くありませんでした)も表面化してしまいます。その中で通訳として働いていた新島襄のそばでマザーグース"Row your boat"を歌っている女性。(ネイテイブな発音でしたね)


はい、ついに出ました。山川捨松、のちの大山捨松(写真)。この人は間違いなく「八重の桜」後半のキーパーソンになります。覚馬の「女子も男子と同じように学ぶべし」と語るその回に初登場とは今後を暗示させる意図もあったんでしょうか?演じるのは日本のトップモデルの水原希子。この人はお父さんがアメリカ人でバイリンガルですからうってつけかもしれません。正直女優さんもやっているとは知りませんでしたが..

この山川捨松は先日も書きましたようにものすごい存在の女性です。
それは先日述べたこの2点
1.おそらく日本史上初めての欧米の帰国子女であること

2.そして西郷の従弟の大山巌と結婚すること

この女性が特別な存在なのは実は単にそれだけではありません。一言でいえば大山捨松明治のスーパーウーマンなのです。

どうすごいのか? 以下に記しましょう

1.おそらくは(単に日本女性としてだけではなく)最初に大学を卒業した日本人であること

2.最初に看護師の資格を取った日本人であること

3.鹿鳴館の華ー英語,フランス語,ドイツ語を流暢に話し西洋のマナーや社交に秀でていた

4.日本のチャリテイ―運動の先駆者

5.日本の女子教育の先駆的推進者

すごい人でしょう? 詳しく述べましょう

山川咲改め山川捨松は兄の山川浩によりフランス人の家に里子に出され、官費留学でアメリカの大学で学びます。この時コネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコン牧師宅にホームステイして、ベーコン家の娘のアリスベーコンとは生涯の親友になります。(のちアリスベーコン津田塾大学の教授に招聘されます)美貌で闊達な捨松はたちまちアメリカの大学でも人気者になり優秀な成績で大学を卒業、留学生には帰国命令が出ていましたが、捨松は滞在延長を申請、許可された後コネチカット看護婦養成学校に1年近く通い、おそらくは日本人として初めて上級看護婦の免許を取得しました。

しかし当時の日本には捨松のような女性の受け皿はなく、帰国後失意の日々を送ります。

そんな中先妻を出産後に失い後妻を探していたのが西郷隆盛の従弟の大山弥助改めでした。

この時代は既に鹿鳴館の時代に入っていましたが、一部の歴史学者によって鹿鳴館「西洋の猿真似」とか当時の政府要人の妻が元芸姑が多かったために「いかがわしい場所」であるかのように書かれていますが、それは全く違います。

なぜならヨーロッパでも19世紀当時は「社交界」というのは実際には外交や政治交渉の場所という機能を果たしており、当時の日本は江戸時代に結んだ不平等条約の改正を国是の第一に挙げていた関係上、外交や各国大使の「交渉場」として鹿鳴館のような「社交界」は必要であったという点は押さえておかねばなりません。

まして大山巌は既に陸軍大臣という要職にあり、そのため「社交界」のパートナーとして捨松のような女性が必要だったという社会背景もあります。


大山巌という人物は「西洋かぶれ」と一部の人間が眉をひそめるほど西洋文明を心から愛した人物です。八重の桜では反町隆史のようなイケメン俳優がやっていますが、実際の大山巌はそんなイケメンではありません(笑) 強いて言えば坂の上の雲米倉斉加年さんが演じた薩摩弁丸出しのやや昼行燈的なキャラクターが実際の大山巌像に近いです。

しかし人は見かけによらないもの、この大山巌という男、何と英語、フランス語、ドイツ語を非常に流暢に話したのです。そしてその「西洋かぶれ」の大山はパリのマドモアゼル然とした雰囲気と美貌の捨松に一目ぼれしてしまいます。

いうまでもなく捨松は会津藩家老の娘、新政府側からの大山への縁談を当然断ります。今でさえ会津は薩摩長州の人間を嫌っていますから当時の雰囲気は推して知るべしです。しかしここで西郷の弟で大山巌の従弟でもある西郷従道が説得に動きます。「山川家は賊軍の家臣ゆえ」という兄の山川浩の逃げ口上は、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内でごわす」(この時すでに西南戦争の終わった後でした)と説得。結局山川浩はしぶしぶ「本人たち次第」と回答します。

この時捨松の取った行動ー「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案。これは今でこそ当たり前ですが当時は異例でした。しかし大山巌は大喜びで承諾。そのあとの話が面白いです。

大山は薩摩弁丸出し、捨松は日本語だと会津弁ーお互い何をいっているか理解できませんでした。しかし大山が英語で会話するととたんに会話がはずみ、捨松は欧州仕込みのジェントルマンで、なおかつ日本人にしては茶目っ気たっぷりの大山に惹かれていきます。面白いことにこの夫婦は死ぬまで英語、フランス語、ドイツ語で夫婦間の会話を行ったようです。 その後捨松は親友のアリスに「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記しています。そしてめでたく結婚。旧会津側からはかなり抗議する人物が多かったようですがしかし大山巌のような夫だからこそ捨松の能力が存分に発揮されたのです。

まずは鹿鳴館


当時の日本女性の殆どは人前での立ち振る舞いにまったく慣れていませんでした。しかし捨松は12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップを身に着ける等、まさに水を得た魚のように活躍。たちまち鹿鳴館の華といわれ諸外国の外交官を引き付けました。目立たないにせよ鹿鳴館での捨松の活躍は外交交渉の進展に少なからず影響をしたといいます。

そして捨松はおそらくは日本人として初めて看護師の資格を持っていました。

実はこんなエピソードがあります。

ある時有志共立東京病院(現在の慈恵医科大学病院)を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることに衝撃を受けました。そこで院長の高木兼寛に自らの経験を語り、患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説得しました。高木兼寛は海外でナイチンゲールの看護師の活躍を目の当たりにした経験があるので、その価値と必要性は認めつつも「財政的理由で」それができないと捨松に告げます。

そこで捨松はひと肌脱ぎます。明治17年に鹿鳴館慈善会」というおそらくは日本で最初のバザーを開催、捨松は品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮を取り、、鹿鳴館がもう一つ建つぐらいの莫大な収益をあげ、その全額を共立病院へ寄付高木兼寛は感激し、日本で最初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立(現在の慈恵看護専門学校)されます。これは私が知る限り日本で最初のチャリテイ―運動になります。

捨松はこの後何回かこういう活動を行っていまして日本におけるチャリテイ―運動の先駆者といっていいと思います。

また捨松は女性の官費留学生からの親友となった津田梅子とともに女子英学塾を設立、これがのちの津田塾大学になります。侯爵夫人という立場上、捨松が教壇に立つことはなかったようですが、側面、特に経営面で支援をしました。新島襄山本覚馬なしには同志社大学を作れなかったように、津田梅子大山捨松なしには津田塾大学は作れなかったといっていいと思います。捨松は津田梅子が死去後、津田塾大学が問題なく運営できることを見届けてから逝去します。夫の巌の死後3年後のことでした。

大山巌との家庭は長男の高を海軍での火薬庫爆発事故で失う不幸はあったものの、夫婦仲はよく至福の家庭を築いたといっていいかもしれません。伊東博文が芸者遊びにうつつを抜かしているとは対照的に大山巌は仕事が終わったらいつもまっすく家に帰り、休日は那須の別荘で家族と過ごしたと記録に残っています

八重の桜 の後半でどのように描かれるか楽しみです。