Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー「襄のプロポーズ」と川崎尚之助について

八重の桜ー今回は山本家に居候する新島襄と八重の心のふれあいや、八重の親友の時尾が新撰組の数少ない生き残りである斉藤一改め藤田五郎と結婚していたこと等が描かれました。

この藤田五郎こと斉藤一については出自を始めよくわかっていない点が多いのですが、永倉新八とともに新撰組の中では数少ない天寿を全うした人物であること。警視庁に出仕し西南戦争で活躍したことは確かなようですが、松平容保を始め山川浩佐川官兵衛が仲人を務めていたのもどうやら史実らしいです。私も知らなかったのですが...

藤田五郎と改名したのはおそらく旧新撰組という肩書を隠すための方便と思われますが、そもそも斉藤一という名前も本名なのかどうかすらわかりません。

さて、新島襄のプロポーズの前に八重にとっての前夫である川崎尚之助の訃報が八重の元に届きました。そこで川崎尚之助についてまだ何も書いていませんでしたので少し触れておきます。

川崎尚之助新島襄と比べ資料が少ないし、残念ながら写真すら見つかりません。わかっている範囲で書きますと、但馬国(現在の兵庫県の日本海側になります)において、出石藩の医師・川崎才兵衛の子として生まれますがどうやら嫡男ではなかったようなので、家をどのみち出るつもりではあったようです。江戸に出て、坪井為春らに蘭学、舎密術(化学)を学び江戸遊学の際、山本覚馬と知己になり、それが縁で会津に招聘され会津藩藩校・日新館の蘭学所において蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導しましたのは八重の桜のドラマ通りです。それが縁で八重と結婚、会津戦争の悲劇の際も本来は会津藩士ではないのに義と縁を重んじる尚之助の性格から、鶴ヶ城籠城戦に参加します。

さて、実は会津戦争終結後の川崎尚之助については諸説あり、これまでの流説によると開城前後に行方不明となり、八重と離れ離れになったとされ、ひどいものでは混乱のさなかに逃亡したというような見方もありました。
ところが実は、降伏後の収容・謹慎期間を経て、他の元会津藩士とともに斗南に移住していたことが最近の資料で判明しました。もちろん八重とは接触しようもなく、音信不通の状態であったことは確かでしょう。しかし彼は、厳しい地で同志たちの生活の糧を得るために涙ぐましい献身を貫き通します。米はもちろん豆類も得難い土地環境の中で、彼が身をかけて奔走する心情が「飢餓傍観できず」という熱い想いだったのです。しかし相手に騙されたあげく裁判沙汰になり、しかも彼の一途な献身の結果はじつに不遇なものとなります。「藩は無関係」として、一身に罪を背負うかたちとなり、最後は訴訟継続中にかかった慢性肺炎によって40才という若さで死去してしまいます。八重の桜は最新の史料研究に基づいてドラマが作られているのがわかります。

山本覚馬「尚之助は病で死んだのではない。時間をかけて戦死したのだ」と無念さをにじませていましたが、尚之助の才覚は明治の時代に必要な人材になったはずですから私も非常に残念でもったいない気がします。せっかくの才が時代の流れにつぶされた、そんな印象がぬぐえない川崎尚之助でした。

しかし傷ついた八重を襄が癒そうとします。欧米のジェントルマンとして教育を受けた襄に八重の心も打ち解けてきます。いよいよ八重の第二の人生が始まる、というのが今回の「襄のプロポーズ」だったんじゃないでしょうか