Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

八重の桜ー山本家の娘たちと徳富芦花

久々の「八重の桜」の記事です。

後に山本家の嫡子となる平馬を産んで覚馬の娘のみねが産後の肥立ちが悪くわずか24歳で死去。実は覚馬にはみねと久栄の2人の娘がいますが二人共偶然にしてはできすぎるくらい共通点があります。

1.どちらも母親と生き別れになる
2.どちらも夭折(みね24歳、久栄23歳)

何か運命のいたずらのようなものを感じますね。みねが死んだのは明治二十年(1887年)ですがドラマにもありますように同年に新島襄の父の民治が死去。これから新島家と山本家には不幸が続きます。特にこれから八重にとってかけがいのない人物2人を病で失うことになります。一人は既に予告編にもありましたように同志社を大学にすべく身を削る思いで働いていた夫の襄が1890年(明治23年)、そして八重の人生に最も強い影響を与えた兄の覚馬が1892年(明治25年)に死去します。そして覚馬の翌年に久栄がわずか23歳で病没。これだけみると御祓いでもした方がいいのでは、と思うくらい不幸が続きます。八重の悲嘆ぶりはいかがばかりかとも思いますが、当の八重は昭和の初期まで生きることになります。

ちなみに八重の母の佐久さん(風吹ジュン)は1896年(明治29年)に87歳と当時としては破格といえるほどの長命を全うしましたが、子供も孫にも先立たれた佐久さんの心情はいかばかりかとも思います。

前置きが長くなりましたが、今日は覚馬の次女の久栄とあわや駆け落ちしそうになった徳富蘆花について述べたいと思います。

徳富芦花(1868-1927)

徳富蘇峰徳富蘆花(芦花)兄弟はともに明治から昭和にかけて日本の論壇や文学に多大な影響を与えた兄弟ですが、結論からいって私はどちらも嫌いです。但し嫌いな部分が兄弟で全く違います。

徳富蘇峰(1863-1957)
兄の蘇峰大竹まことそっくり(笑))とは弟の健次郎(蘆花)は元々そりが合わず、意見もことごとく対立していましたが、一言でいえば私は

兄 ー 思想が嫌い
蘆花ー 人間が嫌い

私は蘇峰は平民主義から自由民権を唱えていましたが、それから国粋主義ナショナリズムへと変節、傾倒していったため人間性はもとより思想家として嫌いです。特に第二次大戦以前の国家主義を煽動する数々の言論は結果として軍国主義の台頭を許した元凶と言わざるを得ません。但しこの蘇峰の自由主義的かつ国粋的な思想は現在もこの国に根強く残っている日本の保守主義の母体として継承されています。
一方で八重の(ぬえ)といって罵った蘇峰ですが、晩年は八重の生活の面倒を見たり、愛妻家としても知られる等人物像に対しては一定の評価はしています。

これに対して蘆花は逆で思想的には兄と違い、国家主義的な思想を嫌い、大逆事件の際、幸徳秋水社会主義者として知られる)らの死刑を阻止するため、桂太郎へ嘆願しようともしています。そのため兄の蘇峰とは、1903年(明治36年)「告別の辞」を発表し、絶縁状態になります。蘆花の氏の直前にようやく兄蘇峰と和解しますが...このように思想の面では兄とは逆で私は一定の評価をしています。

一方で人間性の方では今日のドラマで久栄を置いてさっさと東京に言ってしまう身勝手な部分もあるようにちょっと問題があります。特に代表作といわれる『不如帰』ですが、実はこれはラブストーリですが、実はこれが大いに問題があります。

この『不如帰』のストーリーは

「実家の冷たい継母と気むずかしい姑に苦しみながらも夫との幸福な結婚生活を送っていたが、夫の戦争出陣中に結核を理由に離縁させられ夫をしたいつつ死んでゆく」

それで問題はこの継母には実際のモデルが存在し、それが何と大山捨松(!!) なのです。

これは大山巌の先妻の長女信子は結核のため20歳で早世したのですが、小説の描き方は事実とは全く違う描かれ方をしたそのため捨松はこの風評に悩まされることになります。
つまり『不如帰』の主人公は非情冷徹な継母によって離れに押し込まれ、寂しくはかない生涯を終えるわけですが、これを捨松の実像と信じた読者の中には彼女に嫌悪感を抱く者が多く、誹謗中傷の言葉を連ねた匿名の投書を受け取ることが少なくなかったようです。
 実は史実は小説とはまったく逆で、信子の発病後、離縁を一方的に申し入れてきたのは信子の夫の三島彌太郎とその母で、悩む捨松を見るに見かねた捨松の親友の津田梅子(いわずとしれた津田大学の創始者)は三島家に乗り込んで姑に猛抗議しています。看護婦の資格を活かし親身になって信子の看護をしたのも捨松自身で、信子のためにわざわざ離れを建てさせたのも、信子が伝染病持ちであることに気兼ねせずに自宅で落ち着いて療養に専念できるようにとの思いやりからで決して冷徹な扱いをしていたわけではないようです。捨松が継母でも良い母親だったのは大山巌の他の2人の娘が捨松をも「ママちゃん」と呼んで慕っていることからも明らかで、ここでは事実と全く逆のことがあたかも事実であるかのように世間に広まってしまったわけです。

現代ならさしずめデマが広がって有名人のブログやtwitter炎上という事態になっていたでしょうが、誰かのいった「風評」を鵜呑みにして誹謗中傷の行動を取る、何か日本人って昔から進歩していないな、と思ってしまうわけですが(昔から結構ヒマ人が多かったんですね)、その「風評」をばらまいた蘆花からの謝罪は『不如帰』上梓から19年を経た大正8年(1919年)、捨松が急逝する直前のことでした。

捨松の周囲からの度重なる謝罪と訂正要求にもかかわらず、蘆花はそれを拒否し続け捨松が死の床についた時にようやく謝罪するって確かに何か人間としてどうかな、とも思ってしまいますね。

一応蘆花の発した文言として雑誌『婦人世界』で盧花は

「『不如歸』の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」

と遅きに失した詫びを入れています。

徳富蘆花は明治から昭和にかけての文学界に多大な影響を与えましたが、やはり人間性ではどうでしょうね。しかし今日の「八重の桜」で見せたような身勝手さや、捨松の人物像を歪曲して広め、いうなればデマを流言するーこれら全ても蘆花にいわせれば、今日のドラマでも描いていた「それが人間というもの、私はその人間を描きたい」ということだったんでしょうか?

人間を描こうとすると、それを描く人間の人間性も歪んでいく、ということなんですかね?何か割り切れない感じもしますが..

但し蘆花の死後、蘆花の旧邸宅は夫人より東京市に寄贈され、現在は蘆花恒春園(面積約7万平方メートル)として開放されています。

京王線芦花公園駅から徒歩10分くらい。環八沿いにあります


蘆花恒春園
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index007.html