Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

軍師官兵衛ー荒木村重の悲劇と奸臣中川清秀

※この記事は「ネタバレ」を含みます。知りたくない人は読まないでください

軍師官兵衛ー今回はいよいよ荒木村重の信長への謀反に向かういきさつを描いていますが、これから軍師官兵衛の中でももっともやりきれない、辛いシーンが続くことになります。戦国の中でも屈指の悲劇であり、官兵衛にとっても癒しようのない傷を負うことになります。

まず荒木村重とはどういう人物だったのかについて書きますが、ドラマでは一介の浪人から信長に取り立てられて大名になったかのように書かれていますが、それは正しくありません。但し戦国によくある「下剋上」のパターンであったのは確かでもとは摂津国人の池田勝正の家臣として仕えたものの、摂津池田氏に内紛がおこり混乱に乗じ池田家を掌握、実質的な支配者となります。その後、刀の先に突き刺して差し出した餅を食らうことで(後の世の脚色という説も勿論あります)信長に気に入られ重用されるようになります。官兵衛とは旧知の中ではあったようですが、どのようにして知り合ったについては不明です。家系が信用おけるものかどうかわかりませんが、本姓は藤原氏で魚名流藤原秀郷だそうです。

ドラマでは正室に桐谷美鈴演じる「だし」がなっていますが、年齢的に見てこの「だし」はおそらくは後妻でドラマで出てきた嫡男の荒木村次はおそらく先妻の子供(北河原三河守の娘?あるいは池田長正の娘?)と思われます。「だし」は記述の通りだとすると、信長の妹のお市の方細川ガラシャ夫人に匹敵する美人であったといわれます。そしてこの二人と同じようにだしも戦国の露に消えることになります。

この荒木村重の信長の謀反の本当の理由はわかっていません。信長は村重を重用しその反逆に驚愕し、翻意を促したと言われていますので、それだけにこの時期の謀反はいろんな意味で不自然ではあります。

現在ある説として
1.元々足利義昭石山本願寺とも親しかったこともあり、両者の説得に応じて謀反したという説
2.村重の家臣(中川清秀)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説。
3.信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説、信長側近衆と何らかの対立があった可能性(ドラマでは万見仙千代との確執があったように描かれていますが..)
4.将来に希望が持てなくなったからという説。本願寺攻めでは佐久間信盛になり、播磨方面軍では羽柴秀吉の下風に立たなければならなかったことへの不満

ドラマでは2.の説を取り入れていますが(それと人物は違いますが3,信長側近との確執)、実はこの荒木村重の謀反に向かわせた家臣の中川清秀がポイントとなったことは間違いないようです。

この中川清秀の家臣が密かに石山本願寺に兵糧を横流したのが仮に事実でなかったとしてもこの中川の荒木村重に対してやったことは奸臣(かんしん)と言われても仕方のないほど酷いことをしています。

中川清秀
中川 清秀(なかがわ きよひで)は茨木城主でキリシタン大名として有名な高山右近とは従弟にあたります。ドラマでは兵糧の横流しについて申し開き、恭順を示そうとする村重に対し「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を行ったのは事実らしく、結果的に謀反を起させる原因を作ったことになります。

しかし織田軍が大挙して攻めてくると高山右近と共に降参してあっさり織田の家臣に寝返ってしまいます。結果的に村重の恭順の意思を説得して翻らせ、次いで寝返ったことになりしかももし、村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをおこなったのは清秀の家臣のが事実であるとすれば、村重から見れば結果としてとんでもない奸臣(ひどい家臣)でありわざわいの元だったといっていいでしょう。向背めまぐるしい戦国時代でも特異な例といって差し支えありません。

そしてその奸臣によって信長に叛旗をひるがえした代償はあまりにも大きなものでした。

追い詰められた村重は尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたものの単身で有岡城を脱出して尼崎城へ移ってしまいます。信長は尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を家臣の荒木久左衛門ら荒木の家臣たちと取り交わし、久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったものの、村重は拒否。窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまい。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じました。その中には村重の正妻「だし」もおり、その時の処刑は残虐極まるものだったと記録に残っています。

なぜ村重が単身、実質的に家族を見捨てる形で尼崎城に移ったかは不明ですが、一説には尼崎城で極秘に毛利側の人間と会い直談判をしたという説もあります。しかし戦場、とりわけ籠城の中で大将不在の状態で機能するはずもなく、戦国武将の行動としてはこれは不自然と言わざるを得ません。

私的には荒木村重は誰よりも信長を恐れていた、信長に対する恐怖感と猜疑心が信長に仕えていた頃からあった、と考えた方が自然な気がします。そのため中川清秀の簡単な讒言にいとも簡単に動かされ、追い詰められた時も信長への恐怖心と猜疑心から妻子を捨ててまで逃亡した、と考えた方が自然です。つまりはっきりいえば臆病者だったということです。

そしてこの村重との有岡城の戦いで官兵衛も約1年間投獄されてしまい、劣悪な環境で投獄されていたため肌はカサカサになり、膝は曲がったまま終生不具者となってしまいます。その官兵衛を救出するのは栗山善助母里太兵衛、井上九郎衛門の三人で、3名は順番に背負いながら有馬温泉に向い、しばらく体力が回復するまで逗留し、その後姫路城で羽柴秀吉と対面します。秀吉は孝高のあまりの変わりように驚き、「すまぬ」と号泣したと言われていますが、おそらく同じ展開を「軍師官兵衛」で見ることができるのではないか、と推察します。

さてこの臆病者村重奸臣中川清秀ですが、やりきれないのはどちらもこの有岡城の戦いで生き残ります。

まず村重は毛利に庇護を求めたあと本能寺の変のあと、堺に戻りそこに居住します。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し利休十哲の1人に称されるようになります。出家して荒木道薫と名乗り秀吉にも許されますが、なぜ秀吉をも苦しめた村重が過去の過ちを悔いたとはいえ許され厚遇されたのかは不明です。

同じように中川清秀丹羽長秀旗下で働き、本能寺の変後は秀吉に使え、賤ヶ岳の戦いにて戦死したようです。しかし中川の子孫は豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続します。

戦国でも屈指の悲惨な結果をもたらした有岡城の戦い、中心人物がその後無傷で生き続けたというのが少し割り切れない気分になります。