Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

明智光秀ー謎多き人物と南光坊天海説

軍師官兵衛ー先日の「中国大返し」の模様から一気に山崎の合戦まで描きましたが、ここまで描くとはいささか私も予想外でした。
意外にテンポ早いですね。

さて戦国ものを描くときにやはり、この明智光秀について書きたいと思いましたが明智光秀は出自も謎であり、しかも最近 明智光秀=天海坊説がかなりまことしやかに伝わっていることも考えると、なかなか書き辛い点でもあります。一つ間違えればトンデモ系の類に思われかねないですからね。

しかし織田家臣の中では秀吉に優るとも劣らない智将、信長に並ぶ戦国時代には珍しい合理的精神の持ち主が、なぜ本能寺の変という後世の時代からみても軽挙といわれても仕方のない行動を取ったのか、そして本能寺の変以降の明智光秀の名将らしからぬ戦いぶりを見てもいろんな意味でこの明智光秀という武将は謎ということもできるからです。

そもそも出自がよくわかっていません。美濃源氏土岐氏支流である明智氏で本姓は清和源氏とされていますが、青年期の履歴は不明な点が多く越前国朝倉義景に仕え、その後足利義昭に仕えたようですが信長に仕えたのは、永禄12年(1569年)4月頃からといわれます。

明智光秀は信長の信任が厚かったことは東海道山陰道の付け根に当たる丹波一国(約29万石)を与えられ計34万石を領したことからもわかりますが、何度も書きますようになぜ突然信長を本能寺にて自刃に追い込んだのか、様々な説がありますがまだはっきりとわかっていません。

そして今回の官兵衛でも描かれたように山崎の戦いで羽柴軍2万7千に対し明智軍1万7千に過ぎず合戦は僅か数時間で決したといわれます。

さて、問題はこの本能寺から明智光秀が落ち延び途中に落ち武者狩りで死亡するという末路をたどったといわれるわけですが、これら一連の展開につきましては合理的精神の持ち主で智将といわれた光秀らしからぬ点があり腑に落ちない点が多々あります。

1. 明智光秀が謀反した理由、特に信長を討つ大義名分もなく討ったこと
2. 本能寺で謀反したあとの戦略について智将の割には戦略に乏しいこと
3. 秀吉の中国大返しで泡を食った形になり、終始後手後手に回ったこと。

さらに光秀が野武士狩りで命を落としたといわれる時

1.秀吉の首実検時、光秀の首は既に激しく腐敗して顔面の皮がすべて剥がされ誰だが判別できない状況で、秀吉も特にそれ以上深くは追求しなかったこと。
2.光秀の死後、なぜか光秀の痕跡らしきものが見つかっていること

さて、この2点で首実検された首は実は光秀の首ではなく、実際には光秀は生き延びたという説が飛び出し、そこから荒唐無稽な気もしないわけではないですが光秀=南光坊天海説なるものまで飛び出したわけです。

家康から三代将軍家光まで徳川家のブレーンとして仕えた南光坊天海も実は出自がよくわかっていません。仏教界ではそれほど高い地位の僧とは思えなかったものの、家康が関東に転封になった時に家康に拝謁し以後ブレーンになる等、少々不自然なところもあります。生年もはっきりわからず、没年についても102、118、132、134、135説があり、当時としてだけでなく現代でも驚くべき長寿であります。ちなみに明智光秀がもし山崎の合戦で死ななかった場合は天海とほぼ同じ年齢になっていたといわれます。

『天海=明智光秀』説の根拠として次の点が揚げられます

1.光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の諡名が同じ「慈眼」であること
2.比叡山・松禅寺には、光秀寄進の石灯籠が現在でもあり、その寄進日は慶長20年(1615年)つまり光秀はすでに死んでしまってるはずの年代に寄進されていること
3.日光東照宮の近くの中禅寺湖華厳の滝が見える平らな場所を明知平といい、天海が命名している点(天海本人は「明智の名を残すため」といっていたとか)

4.日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。

5.光秀の家老斎藤利三の娘於福(春日局)が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけ、3代将軍徳川家光の乳母になったこと
6.テレビ東京が特別番組で天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ていること。(但し「不思議発見」では真逆の結果がでています)

まあこれだけ出ているわけですが、この信憑性についてはあえてここでは論じません。

一つだけいえることは戦国時代のもっとも大きな事件の1つが、謎の多い人物である明智光秀によって起されているという史実です。何とも不思議な思いです。