Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

軍師官兵衛ー淀殿と秀頼を始めとする子供達

軍師官兵衛 今日は豊臣秀次切腹、(遺児(4男1女)及び側室・侍女ら併せて39名が処刑)という秀吉政権の中でももっとも痛ましい事件が起きました。この秀次粛清の理由はいまだにわかっておらず、秀吉の晩年の狂気を象徴する事件です。結果的にただでさえ少ない豊臣家の親族をさらに少なくし、豊臣家には秀頼を支える藩屏が全く存在しない危険な状態になり、また連座を余儀なくされた大名は後に全て徳川側につく等、朝鮮の役同様、豊臣家滅亡の一因を作ったともいわれます。

ドラマでは例によって山岡荘八説よろしく、淀殿石田三成の共謀による事件であるかのように描かれていますが、前にも書きましたように今日ではこの説は否定されています。

もっとも石田三成はともかく、淀殿が果たしてこの事件に無関係であったかというといささかがつきます。

勿論確実な証拠はないのですが、この残忍な事件で一番得をしたのは誰か? というとやはり淀殿ー茶々だからです。

そこでこの淀殿ー本名は浅井 茶々について述べたいと思います。

淀殿は数年前の大河ドラマ「お江」(これも本当に酷い駄作でした)でも描かれたように浅井長政の三姉妹で母親は戦国一の美人といわれた信長の妹のお市の方

茶々は兄弟の中でこのお市の方の面影をもっとも残した三姉妹の姉でした。無類の女好きだった秀吉はお市の方に片思いの横恋慕していたといわれ、その関係で秀吉は茶々に殆ど一目ぼれのような状態だったようです。

しかし秀吉は天文6年(1537年)生まれ、茶々は永禄12年(1569年)生まれ、

何と32歳も年が違うわけです。

茶々が秀吉の側室になったのは天正16年(1588年)頃といわれ満19歳(数えで20)秀吉は既に51歳のオヤジ、 

当時は人生50年、といわれた時代ですから当時50といえばもうジジイなわけです。(現代は違いますよ)
当時ジジイと考えられたオヤジが19の年頃の娘を望んだということですから、まあなんともはやということになりますが、

この淀殿が今まで全く子供ができなかった秀吉に2人の男子を生むわけです。

但し、秀吉に他に一切子がいなかったか、というと実はそうではありません。実は長浜城主時代に石松丸秀勝という子供をその土地の娘に生ませています。最もその子供が事実秀吉の落とし子であった、とするならば、ですが... しかしこの石松丸、僅か7歳で夭折してしまいます。

その後正室のおねさんを始め、実際には側室が何人いたのか正確な数字すらわからないほど無類の女好きー(スケベジジイ)であったにもかかわらず全く子供が生まれませんでした。

これは客観的にみても秀吉の方ーたぶん精液が極端に薄かったか、実は性的不能な部分があったのかいずれかーに子供ができない原因があったと考えるのが普通ですが...

なぜかこの茶々だけが二回も懐妊し、最初は「捨」こと鶴松、そして次は「お拾い」こと後の豊臣秀頼となるわけで、当然ながら..

「2人の子の実の父は秀吉ではないという噂」

が当時から既にあったようです。

加えて、茶々の周辺には幼馴染で恋仲でもあったといわれる大野治長なる人物がいました。

実はこの治長は茶々と同じ歳、

大野治長と茶々の密通説は当時からあり、秀頼は実際には大野治長の子とする向きもあります。

まあ現代ならDNA鑑定なる方法がありますが、戦国時代の話ですから今となっては確かめようがありません。

実はそもそも淀殿ー茶々と豊臣秀頼の遺体は見つかっておらず、当然ながら墓もありません。(逃亡説もあります)だから確認は無理です。

確実にいえるのは

秀吉の晩年の凶行でただでさえぜい弱になった豊臣家を最終的に滅亡に導いたのは淀殿ー茶々であったということ

歴史家の中で哀れな豊臣家を滅ぼした家康は悪い奴だという人がいます。家康を庇うつもりはありませんが、豊臣家がよくて家康が酷い、という評価の仕方はいささか公平性に欠けると思います。

なぜなら秀吉もある意味、織田家から天下を奪っているからです。信長の次男の信雄(のぶかつー無能でバカ)を追放し、三男の信孝は結果的に秀吉に惨殺されています。

善い悪いはともかくそれが戦国時代なのです。

家康も同じ。寧ろ秀吉に比べれば穏やかなほうです。

なぜなら私が見る限り、少なくとも江戸幕府が開かれた当時は家康は豊臣家を残そうとはしていた形跡があるからです。

その証拠に溺愛していた孫娘、千姫を秀頼に嫁がせ、豊臣家を公家として残そうとしていた文書も残っています。

しかし 淀殿はあくまで秀頼を天下人に、という思いを捨てませんでした。

秀頼は今調べると必ずしもバカ殿ではなかったようです。しかし豊臣家の実権は淀殿ー茶々にありました。そして秀頼は確かにマザコンの気がありました。

そして時代が変わったことを認めたがらない母親

家康は持ち前の辛抱強さで少なくとも何回かは豊臣家が存続できるチャンスを与えています。(大阪冬の陣はその最後のチャンスでした)

しかし淀殿はそれを全て拒否

あとは滅亡しかなかったんですね。

ちなみに石田三成も豊臣政権時代は妥協を一切拒否しました。
正直石田三成は今でいうKYなところがあり、文禄、慶長の役で手柄だけでなく失敗や悪いところまで全て報告したために、加藤清正福島正則、浅野幸長から恨みを買いました。

どちらにも共通するのは、原則論への異常なまでのこだわり

オール オア ナッシングの発想

これは戦国時代ではバクチに近い発想ですね。非常に危険です。

天下を取るか滅びるかのいずれかしかない

晩年の豊臣政権は実質的にこの2人が仕切っていたのは間違いありません。その関係でいろんな嘘、でっちあげで必要以上に悪者にされてしまいました。

そして結果的に利休は切腹、秀次を粛清、弟の秀長は病死、そして官兵衛は遠ざけられました。

やはり豊臣氏は滅ぶべくして滅んだ、といわざるを得ません