Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

黒田熊之助について

軍師官兵衛ー昨日の「秀吉の最期」で官兵衛の次男、熊之助が事故により船が転覆し死亡する様も描かれました。

当ブログでも黒田熊之助に関するアクセスがかなり集中したので驚きましたが、ここで少し詳しく黒田熊之助について書きたいと思います。

とはいえ、熊之助に関する資料は少なく肖像画も存在しておりません。

そのため詳しくといってもあまり書くことはないのですが

熊之助は1582年(天正10年)、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦時に黒田官兵衛と正妻光(てる)との間に生まれた次男で、山崎城で誕生した熊之助は大切に育てられ、順調に成長します。長男・長政とは15歳差の弟でした。

慶長2年(1597年)7月、豊前中津城で留守中兄長政の朝鮮出兵に加われなかった事を嘆き、秘密裏に朝鮮半島へ渡る途中、船が嵐にあい転覆。わずか16歳で死去した、と記録に残っています。

その時、一緒に船出した家臣の子、母里吉太夫(太兵衛の嫡男)、黒田吉松(有岡城の牢番・加藤又左衛門の息子・玉松ー後の黒田八虎の一人の黒田一成の弟)、木山紹宅の三人も一緒に溺死した、とされています。官兵衛の重臣の息子たちを取り巻きにしたことから見ても、官兵衛の熊之助に対する期待がわかります。

熊之助が天才軍師とされた父、官兵衛と勇猛果敢で知られた兄にあこがれていたのは想像に堅くありません。その憧れと功を上げたいという一心が強すぎて、父の命令に背き朝鮮にわたってしまったのでしょう。

死後、母の光は慶長7(1602)年4月、息子長政が治める福岡城と次男熊之助が溺死した玄界灘がよく見渡される大手門前に黒田家の菩提寺として圓應寺を開基したそうです。そこで熊之助の菩提を弔ったそうですが、その時の光(てる)さんの悲しみはいかばかりだったでしょうか

福岡市にある圓應寺

光姫は夫・官兵衛が亡くなったのち、出家して照福院殿となりこの圓應寺がゆかりの寺となっています。