Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

花燃ゆー「松下村塾」の産声と歴史を動かす塾生たち

花燃ゆー今まで何も書かなかったけれどやはり松下村塾と聞いて何か書かずにはいられませんでした。

今日は吉田松陰と久坂玄随との出会い、
今日のドラマで描かれていた久坂玄随と吉田松陰とのやりとりは全て史実です。
手紙も残っていますが。これは松陰の玄随に対する最初の「演習」だったのかもしれません。松陰は玄随の最初の手紙で玄随の非凡さに気づき、わざと激昂させる手紙を書き、それによって「考える」機会を与えたのです。

これは後に書きますが日本でも珍しい「デイペート」形式の授業です。

松陰が「課題」を与えそれに関する考えを塾生たちに聞く。

知識を詰め込むのではなく、事象を示しそれに対してどう考えるかを問う。これは実際にアメリカの大学でよく行われる授業の形式で、大事なことは「問い」に対してどう答えるではなく、「問い」に対してどう考えるか、ということです。

だから寅次郎こと松陰は実質的に最初の生徒である玄随に対して「共に学びませんか?、友人として」という
「友人と学ぶのに、身分や立場などどうでもいいこと」

この言葉が玄随だけでなく、後に久坂や高杉と共に「三秀」と歌われる吉田稔麿、そして商人の息子でありながら松下村塾に入門する亀太郎(後の松浦松洞)たちの心を動かします。この亀太郎こと松浦松洞は後に安政の大獄で江戸に連行される時の吉田松陰の肖像画を書きます。

松浦亀太郎が描いた松陰の肖像画
そして日本の歴史上でも稀なほど歴史を動かす人材を育てた松下村塾が産声をあげます。

もっとも厳密には松下村塾というのは元々松陰の叔父で奥田英二扮する玉木文之進の私塾だったのですが、門下生が増えるにつけ寅次郎がそれを引きつぐ形で続きました。その後松陰の死後も玉木や小田村によって続きました。実際の吉田松陰版「松下村塾」は僅か1年余りしか続かなかったのですが..

さて明治維新の原動力となった歴史でも稀有な松下村塾、出身の人物を列挙しますと

松下村塾四天王ー松陰門下生で特に優秀だった人物
・久坂玄随「三秀」 ー 長州藩における尊王攘夷派の中心人物 禁門の変で自刃
個人的には久坂玄随の自刃は当時の日本でも最も大きな損失だと考えます
高杉晋作「三秀」 ー 長州藩尊王攘夷の志士で倒幕の中心人物 身分を問わず参加できる志願兵隊の奇兵隊を創設、明治維新の前年肺結核で死去
吉田稔麿「三秀」 ー 長州藩尊王攘夷の志士、高杉や久坂に劣らぬ才能の持ち主ながら池田屋事件で落命。もし池田屋事件で落命しなければ初代総理大臣は稔麿だったろう、ともいわれる
入江九一 ー 長州藩尊王攘夷の志士。久坂と共に禁門の変で自刃

明治維新後活躍した人物
伊藤俊輔(博文)ー言わずと知れた初代総理大臣。
・山縣狂介(有朋)ー入塾していない、という説もあるので議論が分かれるところですが、明治時代元老中の元老といわれ隠然たる勢力を構築
品川弥二郎ー。倒幕運動の志士。薩長同盟成立に尽力、内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任 後に内務大臣
・野村靖ー。倒幕運動活躍。枢密顧問官、駐仏公使、内務大臣を歴任
前原一誠ー。倒幕運動の志士として活躍したが、明治維新後、萩の乱の首謀者となる

・その他
・寺島 忠三郎ー。尊皇攘夷派の志士 御楯組結成に参加、禁門の変で自刃
・松浦亀太郎(松洞)ー江戸時代末期(幕末)の画家、長州藩の志士。魚商人の子として生まれ幼少より絵画を志し安政6年(1859年)安政の大獄によって江戸護送が決定した吉田松陰の肖像画を残す。長井雅楽暗殺計画を計画したが、翻意を促されて断念し、京都粟田山にて切腹松下村塾の最初の犠牲者

松下村塾生と誤解されている人物
桂小五郎木戸孝允ー。言わずと知れた「維新の三傑」の一人。松下村塾生との交流は深かったが松陰には明倫館時代の松陰に兵学の教えを受けている。長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者として活躍
・井上門多(馨)ー。意外に思う人も多いが、松陰の教えを直接うけたことはない。但し久坂、高杉を始めとする松下村塾生との交流は深かった。

この中でまだ「花燃ゆ」の中でキャストが決まっていない人もいますが、今後たぶん出てくるでしょう。

いずれにせよ歴史にこれほどの影響を与えた人物を輩出した塾はたぶん他に例はなかったかもしれません。