Kyojiのよろずひとりごと

作曲家、編曲家、ピアニストそして製作会社の経営者ですが、ここでは音楽以外の社会一般のことの雑感について書きます。

大阪経済を立て直した五代友厚”才助”について

久々に歴史ネタ

しかし大河ドラマではなく朝の連ドラ「あさがきた」に出てくる五代友厚についてです。

薩摩藩士というと大久保(利通)とか西郷(隆盛)とか黒田(清隆)とかいう名前を思いつきますが、五代友厚となると意外に知られていないようですので、ここで記しておこうと思います。


五代友厚1836-1885

五代友厚ー通称"才助"は薩摩藩士の五代秀尭の次男として生まれます。大久保、西郷が下級武士であったのと比べると五代の父親は琉球交易係を始め藩の要職を務めていましたがこの父親の仕事から海外への憧れをいだいたらしく、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図を父親から複写することを命じられることで海外への強い関心を持つようになります。

かねてから父親を通じて海外の情報に精通していた才助は開国論者となり勝海舟長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びます。この時の関係で勝海舟を師と仰ぐようになります。ちなみに意外に知られていませんが長崎海軍伝習所の塾頭だった坂本龍馬とは気が合ったらしく、長崎海軍伝習所が閉鎖しても交流が続き大洲藩からの人材派遣の依頼や「商社示談箇条書」、いろは丸事件の裁定など商業面で多くの交流を持つようになります、「あさが来た」でも龍馬のマネではないかと思われる護身用のピストルを持っていましたが、武士でありながら商才にも長けていたという面では坂本龍馬とも多くの共通点があります。

その後高杉晋作らと上海に渡航したり、薩英戦争では捕虜になるものの脱走に成功、慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、この時の経験が後の経営手腕に大きく寄与することになります。この時に特筆すべきはグラバーらとともに、長崎の小菅において小菅修船場(ドック)の建設を行い、これは現在でもは俗にそろばんドックと呼ばれるもので現存しているそうです。

その後戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛大久保利通らとともに倒幕に活躍します。

五代"才助"友厚は幕末の志士ではありますが、とかく尊王攘夷論に走りがちな多くの幕末志士と違い、最初から開国論者であったことが特筆すべき点だと思います。海外への渡航経験から英語の会話能力も取得し、これが仕事の上でも日本初の英和辞典刊行にも役に立つことになります。

明治新政府の発足に伴い、参与職外国事務掛に任じられ大阪に着任。ここから五代の大阪での活動が始まります。外国権判事、大阪府権判事に任命される。初代大阪税関長に就任し大阪府政を任せられますが、後世からも大阪人から大いなる尊敬と感謝をされるほど大阪に尽くした功績は大きかったということができます。

主な成果を整理しますと

1.日本発英和辞典刊行  1870年

2.大阪造幣局竣工  1871年

3. 大阪株式取引所 設立  1876年

4. 大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立  1876年

5. 大阪青銅会社(現;住友金属工業)を設立  1881年

6. 大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)開業  1884年

7. 大阪堺鉄道(南海鉄道)設立  1884年

まだ細かいのをあげればたくさんありますが、これだけ現代に続く大きな企業、システムを作り上げたのは本当にすごいと思います。

1885年に糖尿病を患い死去。

葬儀は当時人口40万人ぐらいの大阪で御堂筋パレード以上の葬列の葬儀が中之島で行われたそうです。
それだけ大阪の人に感謝されていたんですね。

演じるデイーンフジオカ、かなりオイシイ役を射止めた感じですね。「あさがきた」のキーパーソンになることがよくわかります。

但し主人公の白岡あさー実際には実在の人物である広岡浅子が活躍するのは五代友厚や旦那の白岡新次郎こと加島屋・広岡信五郎、両名とも他界してからになりますが...